校区の紹介 豊かな自然に囲まれ、歴史・文化遺産が数多く残る朽網校区

本校は、小倉南区の南端部の京都郡と隣接する住宅地にある。周囲三方は山々に囲まれ、北東部には曽根新田の平野が広がり遠くに周防灘が一望できる。本校の位置する朽網の地の歴史は古く、古代人の生活を偲ばせる跡や鉄文化伝来の跡、更にはヨーロッパ精神文化、キリスト教伝来の事跡もある。また、日本書紀にも登場する帝踏(ていとう)岩等もある。本校はこの地に明治5年集義校として発足して以来132年の歴史を刻んでいる。この歴史は古きよき地域に支えられ発展してきた。また諸先輩の作った伝統が今なお守り継がれている。本校は、これらの歴史と伝統を基盤にしてさらに発展すべく、地域に開かれた活力と魅力ある学校づくりに全職員が一丸となって取り組んでいる。

貴船神社(きふねじんじゃ)

大昔、貴船大神は、来田見浦に着きこの山の東麓に船をつないでこの山の麓に住んだといわれ、後に来田見浦の産土神となる。神玉を入れた箱や船はそのまま石となって残ったといわれている。古来より神田植の行事があり、かね・たいこ・笛のおはやしで、数十頭の牛を使って田植をしていた。
現在の社殿は、寛永三年(1626)細川忠利によって建立されたものである。毎年、神幸祭ほか多くの神事が行われる。
(朽網郷土史より)

帝踏岩(ていとういわ)

蛭子山の北にある大石で、大昔、景行天皇が青龍窟に住む土ぐも(土賊)を討伐する際に、舟をこの石の近くに着けて大岩に登り賊を討つための戦勝祈願を行った。「賊に勝つことができるならばこの大石よ、大空高く舞い上がれ」と祈ってけり上げたところ柏の葉のように舞い上がり、めでたく賊を討つことができた。それからこの大石を帝踏岩と言うようになった。
(朽網郷土史より)

神幸祭(じんこうさい)

寛政4年(1792年)から曽根新田づくりが始まり、寛政8年(1796年)に田地として仕上げたが、文化14年(1817年)、台風のため堤防が決壊し、死者17名、家屋、田畑流失の大災害を受けた。海を埋めて陸地をつくることを神に謝し、再度の災害がないよう新田鎮守のため、綿都美神社を建立、平安を祈ったのが始まりである。毎年新緑の五月、祭りに繰り出す山車は高さ約5mで、神張りの岩、人形、屋形、飾りのしない、のぼり等華やかな飾り付けがされる。祭りの当日は、子どもたちがそろいのはっぴに身をかため、額に汗して山車を引いて地域をねり歩いている。
朽網郷土史より

昭和池(しょうわいけ)

昭和12年(1937年)、曽根・新田地区の農業用水確保のため県の工事で造られることになり、昭和14年3月着工し、昭和19年に完成した。(この池は谷間の田畑と住宅のあったところで6世帯の方が移転された)池の完成により水不足のため米作りに苦労した田畑も収穫豊かな良田に変わった。
池の面積は約10万u(10ha)、貯水量は76万t、導水路の延長は約2500mである。
昭和31年、32年に池の周辺に桜が植えられ、「昭和池千本桜」として地域の人々に親しまれている。また、4月上旬には水神祭がにぎやかに行われている

出会い坂(であいざか)

北九州市が進めている「うるおいと親しみのある階段、坂道づくり」事業で昭和61年5月に完成した。坂道はJR朽網駅と日豊ニュータウンを結ぶ階段とスロープで巾8〜10m、長さ101mでカラー舗装されている。
坂の途中にあるタイルの壁画は、朽網小学校・東朽網小学校両校児童の力作で地域の方々に親しまれている。
なお、昭和62年3月に「第2回美しい都市づくり賞」で経済同友会賞を受賞した。