遭難五士慰霊碑                                           modoruburu.gif (3571 バイト)

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  この石碑は、飛行機墜落事故で亡くなられた5名の霊を慰めるために、日本航空輸送株式会社が建てたものです。墜落事故は、昭和7年(1932年)2月27日午後3時40分ごろ起きました。この日は、河内地方は猛吹雪で見通しが悪く、大阪から福岡の名島へ向かっていた日本空港の「白鳩号」が旧樋口軒の裏山に墜落したのです。白鳩号には、操縦士、通信士、機関士の五名が乗っていました。4名は即死でしたが、機関士の一人は、八幡病院へ運ばれた後亡くなられました。当時の新聞によると河内地方は、前の夜から大雪で5.6寸(16〜20センチ)の雪が積もっていたということです。その雪の中を八幡病院の副院長さんや看護婦さん、八幡市内外の青年団、消防団、八幡警察署の署長さんや警察官、地元の方など数百名が現場にかけつけ、救助にあたったということです。
 河内で起きた飛行機の墜落事故は、その頃の日本の航空界では大事故であり、大きなショックを受けたということです。そのために、外国から部品を輸入して組み立てていたドルニエー・ワール双発飛行艇(水上飛行機)の国産化は中止されました。そして、それ以降、太平洋戦争のきっかけとなった昭和16年の真珠湾攻撃までの間に、日本の航空技術は非常に進歩したということです。

山頭火句碑

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  句碑には「水を前に墓一つ」という句が刻まれています。句碑の文字は、山頭火が」手帳に書いたものを15倍の大きさに拡大したものだそうです。句碑の右横には「敬山可慎首座」と刻まれたお坊さんの墓があります。「首座」というのは、上座の次のお坊さんのことです。このお墓は、三本松にあったのですが、この場所に移されてのです。したがって、山頭火がこの俳句を詠んだのは、三本松ということになります。今から70年ほど前のことです。山頭火日記によると、山頭火は昭和5年(1930年)11月24日、下関市から八幡市にやってきました。八幡では、俳句で知り合った星城子さんの家に泊まりました。そして、11月25日河内貯水池に星城子さん、俊和尚と三人で来たのです。山頭火たちは、柚子をもらったり、野いちごをつんだり、俳句を作ったりしながら河内貯水池に登って来ました。次の俳句は、その時に作ったものです。
               
水はたたへてわが影うつる
                                                 をりをり羽ばたく水鳥の水
                                                水を前に墓一つ
                                                好きな山路でころりと寝る
                                                そよいでいるその葉が赤い
                                                風が冷たい握手する

 河内貯水池へのハイキングをした日は、お天気がよく、三人は春の日のような散歩を楽しんだということです。帰りには、警察署に勤める小城さんの雲関亭によって、俳句の会に出席しています。八幡にいたのは、わずか2日間でしたが、河内の美しい景色を印象深く受けとめたということが日記に書かれています。

清原拐童句碑

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 句碑に刻まれている「心太(ところてん)山の緑にすすりけり」という俳句は、昭和16年(1941年)4月の句会で作られたものです。この句碑は、昭和24年5月「木の実会」によって東河内の貯水池のほとりに建てられました。しかし、昭和42年(1967年)現在の場所に移されました。清原拐童が東河内を訪れた頃には、山から引いた水で冷やしたところ天を売っている店が何軒かありました。お店では、ところ天の材料であるテングサを取ったり、仕入れたりするために若松区の脇田、安屋、岩屋まで出かけていたということです。この俳句を鑑賞していると、山のすがすがしい緑やところてんの透明な美しさが目に浮かび、ところ天をすする音が聞こえてきそうですね。清原拐童という人は、有名な俳人、高浜虚子のお弟子さんで福岡の俳句を盛んにするために努力された方です。

 

 

帆柱新四国第三十番札所


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河内や田代には他にも札所がいくつかあります。お参りをしてまわられる方がいるそうです。

 

 

 

 

 

十三仏 

4-1113.jpg (8155 バイト) 十三の仏様が西を向いて並んでいます。左横にある石碑を見ると,昭和8年(1933年)地元の人によって建てられていることがわかります。亡くなった先祖の霊は,あの世で十三の仏様に導かれるということです。

 

 

 

たくさんの碑が集まるこの一角は北九州市がばらばらにあった碑を一まとめにしたそうです。いつも美しく掃除されています。河内の町内会で順番に当番を決めきちんとされているそうです。modoruburu.gif (3571 バイト)