柄杓田とその周辺   歴史   伝承話   方言   柄杓田漁協   カニ・カキロード 
猿猴石 おさん峠 城棟梁、孫右衛門 津村島、神の島、蕪島 権七岩 堂の岬 ハゼの浜 お宮の横松

 地方の歴史はとても大切です。児童にとっても地域の住人の方にも大切です。ふるさとを離れても心に残っているものです。その歴史を残すことは重要なことと思います。その意味では地域の「浅井熊吉さん」という方が貴重な資料を残されています。浅井熊吉さんは平成20年12月末にご永眠されました。大切に残していただいた資料を埋もれたままにしておくことはしのびないと思います。そこで、ご親族の方の許可をいただいて、本校ホームページに掲載することによって残そうと考えました。また、浅井熊吉さんの資料は当地の光照寺に納められています。
 年数等は、浅井氏が執筆された当時のもので、こちらで変更を加えておりませんので、ご了承ください。
 また、手書きや版を重ねたものを資料としているため、読み取りができない文字が多々あります。また、こちらが間違って記載している文字があるかもしれません。訂正等に気付くかれた方は、お知らせいただければ幸いです。

 平成21年3月12日
                                            北九州市立柄杓田小学校 校長  浦  一 夫

                  浅井 熊吉 氏の思い

世の中は大きく変わり、江戸時代300年分に相当する速いテンポです。また、核家族化した昨今、孫達と話す機会は全く断絶しています。

私達は幼い頃、いろりを囲み、祖父母等から、いろいろな昔話や伝説を聞きふるさとの山川のなつかしく思うのもそのためであろうかと思います。

伝承活動こそ日本古来の文化を守り、後継者を育てる大きい事業と思い、私たちのふるさとの伝説を記録しました。

平成4年2月
                                                       柄杓田校区老人クラブ連合会

   猿猴石
 何時の頃か、大積の城主が喜多久から伊川に向かう途中、たまたま柄杓田スタヌキ川の橋上で休んでいると、猿猴が出てきて馬を水中に引き込んでいた。馬は力強く猿猴を丘に揚げた、この様子をじっと見ていた殿様は、刀を抜いて猿猴を切り捨てようとした。猿猴は哀れな声を出し、傍にある石に指さして言うには「どうぞ殺さないで下さい、この石が腐るまで、絶対に人畜に災いを及ぼしません」といいました。城主はこれを許し、猿猴を川に放してやりました。深夜猿猴は出てきて、この石に爪を打ち込んでみましたが、駄目であったといわれています。
 今、この石は、忠碑の右下にあるエンコ石です。



 左の写真は、現在平成21年10月22日撮影のものです。道路の上からの遠景です。
 右の写真は、現在のものです。撮影 平成21年8月1日

 地域の方、撮影。

   おさん峠
 今は俗に喜多久峠と呼んでいるが、この峠には、古くから次のような伝説があります。
 
 夏のある夜ふけに、柄杓田村に住むとりあげ婆さんは、雨戸をトントンとたたく音でおこされました。「なんだろうこんな夜ふけに、どなたかなあ」とおそるおそるいうと「子供が生まれかかっているので、すみませんがすぐ来てくれんかなあ」という。「あなただれかなあ」「わたしは喜多久の者ですが、私について来ておくれ」と言うのでお婆さんは誘われるままに、喜多久峠までついて行きました。ちょうど峠をこえたと思った時、右下の鬱蒼とした樹木の間から、燈火がかすかにもれていました。お婆さんは「こんな所に家はなかった筈だが」と思いながらなお近づくと、家の中から悲鳴のような声が聞こえました。
 お婆さんは案内されるまま急いで家に入り、お産で苦しんでいる女を見て、早速手当てをしたところ、玉のような赤ちゃんが、一人、二人と次々に五人も生まれました。

 お婆さんは自分のことのように、後かたづけをして、「お大事に、またあすきます」と言って柄杓田に帰りました。

 さて翌日お婆さんは「赤ちゃんはどうしているかなあ…お湯を沸かしてやろう。きっと喜ぶだろう」と言いながら、昨夜歩いた道を急ぎ足で、やっと峠まで来て家を探しましたが、目指す家は見当たらず、そのあたりは一面に雑木と竹がおい繁っていました。

 この話を聞いた村人は、この峠には昔から狐が多いので、それは狐のお産だったのだろうと言うことになり、それからはこの峠を誰がいうとなくおさん峠と言うようになったそうです。

   城棟梁、孫右衛門と狐

 柄杓田光照寺の鐘楼は、小倉城の城大工の棟梁孫右衛門の建てたもので、今でもびくともせんと、地元では評判のものでした。そのひい孫の孫一は小倉城の棟札に孫右衛門の名が掲げられていると、祖父からよく聞かされたそうです。孫一の家には、袴や大小の刀が長持ちに沢山入っていたという。
 
 天守閣を立てた江戸時代、小倉への道は奥田峠を越えて行ったという。ところが孫右衛門は大工の腕前はたしかであったようだが、臆病者であったとみえ、ある夜、城下町から帰る時、峠でばけものが出てきた。孫右衛門はびっくりして、いつの間にか、腰の刀を抜いて真二つに斬った。その話を聞いた村人は、明くる日、孫右衛門と一緒に昨夜の所に行ってみると、柿の木の接木のそえ木を真二つに切っていた。皆の者は、あいた口がふさがらず、功名手柄どころか、狐にだまされたのじゃないかといって、早々に引きあげたという。

平成21年現在

   津村島・神の島・蕪島

 
柄杓田の海岸に立って沖を見ると、絵のように美しい、津村島・神の島などが浮かんで見えます。
 
 昔、津村島明神は女の神様で、やさしく、美しい神であったという。なかでも苅田沖の弓の名人神の島と大積の太刀の名人蕪島の神は、最も熱心で、いわゆる恋敵であった。両島の神は互いに譲らなかったのでついに真剣勝負して、勝った方が津村明神の夫になろうと相談がきまりました。

 さて、神の島の放った矢は蕪島の胴体をつき抜けそのふっ飛んだ岩は、野江谷にある矢形岩となった。蕪島の太刀は、神島を二度切りつけ三切れとなり、今二つのくぼみのある三切れ島となっている。蕪島の大刀は長く、その先が太刀洗浦に当たった。それで地名を太刀浦という。

   権七岩

「やまいだ」の浜の南端に大岩があり権七岩と呼んでいる。その岩には枝ぶりの良い松が一本生えていたが、昭和の初めの大時化で枯れてなくなってしまった。
柄杓田浦の漁船は、沖の遠くに出かけるので、細長く速く走るチョロンコという漁船でした。船は軽いため、大時化の時はときどき遭難することがあった。
 ところが村に権七という腕のたつ人で、心やさしい漁士がいた。海が時化て帰らない船がいると聞くと、すぐ助けに出かけ、多くの遭難者を助けたので、村の漁師たちは権七さんの勇気と親切をほめたたえていた。ところが、ある日嵐となったので、いつものように権七は助けに出かけたが、岩の近くで不遇にも、権七は遭難し、ついに帰らぬ人となった。


 地元の人々は、この岩を権七岩と呼んで、権七の冥福を祈るようになったといわれている。
                
               昔の様子                               現在(平成21年3月)の写真

   堂の岬

 柄杓田駐在所の前二百メートル程の所、赤土の広場がある。

 昔この地は海に面した小高い松山で、山頂には阿弥陀堂があったことから、堂の岬とよんでいる。

 源平の戦いの際、赤間ヶ関の極楽寺住職は、地元の漁師に命じて、小船を操り萱束に火を点じて、平家の船に投げつけて抵抗した。そのときの死者の霊の冥福を祈るため、この地に阿弥陀仏の像を安置したと伝えられている。この地の谷には、平家軍の水夫の生き残りが住みついていたのでここに堂をたてたといわれている。

この阿弥陀堂の仏像は現在光照寺に安置されている。

   ハゼの浜 

 柄杓田海岸で宮の下から、喜多久に入る小公園までの海岸をハゼの浜といっている。

 今から150年程前、小倉藩は地域の特産物として、櫨の実の栽培を奨励した。ここの山の中腹は日当りがよく、西風が当たらないので、櫨の木に最適の地であった。中腹を段々畠にし、夏は唐芋、冬は麦を蒔き、土手に櫨の木を植えたのでよく成長し、よい実が採れた。秋ともなると湾内の入江にはよくはぜが釣れ、船からこの紅葉櫨は絵にかいたように美しい眺めであった。12月の初めごろになると紅葉は落ちて櫨の木には大きな籠をつるし、長い竿で実を採集し、それが終わるとやがて冬将軍が来るという四季を告げる丘でもあった。

今は櫨木はなくなったがハゼの地名はなお残っている。

   お宮の横松
 天疫神社境内の西南に面する石垣ぞいの参道にさしかかる二本の大きい松があり、その下の民家を覆っていた。
 
この松は直径1.3メートルもあり、大胆な若者は民家の上まで平気で歩いていっていた。台風により、この松が根こそぎ倒れる心配があったので、大正15年夏に切り倒した。ところが根元から銀色の蛇が這い出てきた。
 これを見た数名の若者は4・5日病んで亡くなったので、松の木のたたりであったのではないだろうかと言いつたえられている。