柄杓田とその周辺   歴史   伝承話   方言   柄杓田漁協   カニ・カキロード 

 この資料は、地域住人で歴史を調べられた故浅井熊吉氏(平成20年12月末ご逝去)が書かれたものです。親族の方の許可を得て掲載しています。内容は忠実に掲載しておりますので、時間的なものはずれがあります。また、読み取れない文字などは、●で表記しております。
  まえがき

 国に歴史があるように、ふるさとにも歴史がある。ふるさとの歴史こそ、祖先への愛着をおぼえ、敬慕の念がわく。
 柄杓田には、的確なふるさとの記録がなく、残念至極で幾度かまとめようと思ったが、とても容易なものではなく、浅学と無力を嘆くばかりで今日に至ったが、余命いくばくもない私は逃避できない。
 手当たり次第、記録を年代順に収集してみることにした。
 諸君の方で、史実と相違の点をご敬示いただければ幸せに存じます。


                                                        浅井 熊吉
1、柄杓田の概況
 北九州市門司区柄杓田について、門司市史(昭和8年)は「元和図(執筆時372年前)には此村の名見えず、正保図(執筆時343年前)にはあり。伊川より別れしなるべし」と記している。豊前国企救郡柄杓田村は、明治22年、周辺の五ヶ村が合併して東郷村大字柄杓田となつた。その後、昭和4年に東郷村が門司市に編入されたのに従って、門司市柄杓田となり、昭和37年、北九州市門司区柄杓田となって今日に至っている。その呼称は、今日一般にヒシャクダであるが、土地の老人はシワクダともシャクダとも言っている。

2、地勢
 柄杓田は企救半島の東部に位置し、周防灘沿岸に沿い、恒見、刈田半島今津を経て西国東半島等で周防灘の東西南を形成している小集落である。東、北、西の3方は山を負い、南に入り江を抱いて、他の集落から孤立して、文明開花の風すらも吹き込んでこない。いたってわびしい漁村であった。

3、生活
 古くから沿岸漁業の盛んなところで、元和8年頃は13〇隻の漁船のある大漁村で、漁業協定による特権を有し、部崎より猿喰に至る漁区にわたり、響灘方面にも入漁の慣行を有し、各種の漁業盛んであり、特に打瀬網の経営は県下における過半数は同浦で行われている。当浦の打瀬網は明治39年には3〇隻に上っていたが、その後多少の減少あるも昭和1〇年頃手操網、烏賊その他打網等県下、1、2を競っていた。採石・港湾整備等の影響もあり、漁糧減少し、最近は海苔、貝類の養殖が盛んになっている。
 居住者はほとんど土地の者であったが、終戦後は婚姻など他所から行われることとなり、土地の者の姿もうすくなっている。宗教は一村一寺眞宗の門徒ばかりであったが、昨今は次第に変わってきている。
 交易は、村から一番近い町は門司である。それすらも約3里の道のりで、おまけに途中2つの峠を越えねばならない。村を出外れて右に向かうと黒川への道で、椿峠である。この峠を越え、黒川の村を通りすぎ、しばらく行くと2つ目の峠にぶつかる。桜峠である。これを下ってやっと門司の丸山に至るのである。
 大正の半ば頃の椿トンネルができるまでは、この曲がり曲がった小道を車は坂で通れず、専ら荷物を担いで歩いた。6尺棒は●の木が一番上等物でこれを選んだ。この峠をワラジがけで一日2度も力一杯の魚を担ぎ、1〇〇人近くの男女が走るのが仕事だった。今から考えれば、とても想像もつかない健脚だったと思う。

4、方言について
 思えばこの様に交通機関も発達していない人の出入りのない閉鎖された社会であるから、当然のこと、言葉もその地域のみで育ち、どくとくな生活語であった。大正1〇年頃から小学校で言葉の浄化運動もおこり私共の父親が用いた郷土の言葉がいつの間にか消えてしまった。然し郷土の香が漂う方言を使って語り合う打ち解けた親しみ心のゆさぶり、あたたかさは、例えるものがない喜びがある。
 いずれ、昔の柄杓田言葉をまとめておきたいと思う。


※ 「 ●」は、読み取れなかった文字
年代不詳、絵か写真かも不明 明治30年 地図 柄杓田は右上
 
西暦 元号 柄 杓 田 に 関 す る 事 項
1185  文治 平家が壇ノ浦に滅んだ際、平家に味方していた塩飽水軍の生き残りが企救半島の深い入江であるこの地に住みついてシワクダとなった伝説がある。
1272 文永 伊川郷のうちに杓田という地名がある。  
1575  天正 20 天正年中に長門の国赤間ケ関城主 当地に来住、出家して阿弥陀堂一?建立す。                       (門司郷土叢書寺院編)
1596  慶長 3月、願円と号し、寺号を光照寺と称し真宗本願寺(海見山光照寺、柄杓田西方にあり)
1622 元和 7・3 御蔵納  高 50石  家数 12軒
     4軒・・・本家  2軒・・・牛屋  6軒・・・蔵寄の親、子ども、下人の部屋
男女合計 48人 内訳
男24人 女24人 牛数2匹
柄杓田  12軒  48人   伊川   51軒 160人
黒川    14軒  33人   大積   72軒 197人       (元禄図繪図)
彊城字 村帳
 家人、馬、牛の日帳 村誌(明治10年記)
 東は山脈、字舟着の背上を界とし、同郡喜多久村に界し、西は山脈字石塚峠の背上をもって、同郡伊川村と界す。南は海上を限り、北は同郡喜多久村と山脈字江上(コウガミ)をもって界す。
 幅員 東西10町 南北7丁30間
 税地 田・・・9町3友 畑 5町3反
 宅地 22反 山林 47反
 合計 51町9反
戸数 208  人数 男 561 女533  牛数 6匹  日本形船 130隻
川 堀川溝   橋 向浜橋
湖沼 5島河内、同下池 伊良迫 石塚 ●園 
   田舎越藪 穴迫
社  天疫神社
寺  光照寺 浄土真宗(西)
(字小名取調簿)
5島河内、イラカ迫、石塚、洗川の奥 堤ノ下洗川、後平(ウシロベラ)、スダノ木、3反田、ゲメゾノ、松平(マツベラ)、田舎尻、貴船迫、川南、向原(ムカエ)、小迫、越藪、寺ノ下、?迫、川北、尻田、船付、船付道ノ上、ハゼ、向浜、南方、北方、イノ迫、イノ迫南方、長迫、浜道、浜ノ上、寺ノ上、イラケ迫、池下5島河内下、後平谷、田舎池ノ下、貴船口、寺下往来、石塚池下、北久浜峠、石塚他、西ノ峠、辻山、長尾、後半迫、松尾、井出山、イラカ迫、南山、長岩、浜ノ上                                                             明治15年調
1626  寛永 伊川、平山、柄杓田分れて3村となる。                    (門司市史)
1664 寛文 3月 今津浦庄屋 柄杓田浦庄屋と網場境の證文を交す。
柄杓田浦え所持仕候網場境書證文指上申證文之事
1 門司浦之海境は西は広石境 東之郷境東は平崎よぼし岩迄境 柄杓田浦境は平崎より伊川村、猿喰村、おかの鼻境 今津浦は猿喰よりいまさいけ松ヶ江を限り 恒見吉志は松ヶ江よりかんた松山限り 右之魚場境わかち 先年よりわかち究定り御座候 左候所に門司浦に去10月他国網3候而網曳申候に付 3ケ一之實門司浦に取申事紛無御座候 私共抱網場銘々あしろ究申所紛無御座候 以上   (門司郷土叢書部落編・今津村誌)
           寛文4年辰3月3日
右御裏書左之通
一 柄杓田浦漁場境は西は部崎ゑぼし岩限り 東に猿喰岡之鼻限り 以前より相極定り之通也
一 鰯網一切大網之義は 余浦之漁場へ曳に3候間敷 余浦之網曳き申間敷候 銘々抱之漁場曳可申事
一 小魚之儀は柄杓田浦より加了管を 今津恒見えは入相に曳き可申事
右今津恒見より漁場境之儀申出候に付及沙汰に瞼儀之上申付候者也  
               
前々之通鰯網一切 大網之儀は入●に曳申間敷 銘々講之漁場曳可申候 余浦え曳に参申間 余浦に網曳き申間敷候 尤小魚之儀は柄杓田●加了管 今津恒見には入●に曳せ可申候   
1720 享保 浦々浜続支配構之覚
一 筑前御境より西之波塘迄之内 右平松之構
一 川口より鳥越迄之間 右長浜浦構
一 赤坂浦浜手之儀 万事長浜え申出候上に而注進等可仕事
一 鳥越より葛葉之鼻迄 右大里浦構
一 葛葉鼻より大久保迄之内 右門司浦之構
一 大久保より部崎迄之内 田野浦構 
一 部崎より猿喰岡之鼻迄 右柄杓田浦構
一 猿喰岡之鼻より恒見浦境迄之間 右今津浦之構
一 今津浦境より松山御郡境迄之内 右恒見浦之構
右浦々浜手構之儀以前より定り有之候而支配仕来候 近年は覚え違有之間無念之事に有之候 向後は右定り之浦々庄屋より無間違様 諸願御注進等御浦方御郡方へ早速可申出候
一 浜手近き村々下浜へ流寄物有之● 又は何ぞ替りたる事有之候はゞ 早速右引請之浜庄屋方より御郡方へ申出候 見のがし致間敷候
右之趣へ浦々庄屋 又は浜手筋村々庄屋へ早速可申渡候 向後無相違相守候様急度可申候 尤御浜手より茂此段可申付候
1732 享保 17 いなごの害のため大飢きんとなり飢餓者                 (●●●過去帳)
柄杓田 76   喜多久 11  白野江 63   黒川  48   大積  92
1781 安永 10 鳥居1基  奉寄進 氏子中 柄杓田天疫神社             (門司●石記念誌)
1810  文化 1・15 伊能忠敬 田ノ浦を出発 白野江、大積、鍋島、喜多久を経て柄杓田まで測量(1里23町14間2尺)
柄杓田光照寺に宿る。伊川今津方面へ                  (伊能忠敬日誌)
1828  文政 11 光照寺、水盤建立                             (水盤記録)
1838 天保 柄杓田村                                   (村帳)
一、 本免 5ツ3歩 4ツ3歩
一、 本高 131石9斗2升9合7勺
一、 田畠 12町7反16歩半
     内  田 9町01畝6歩半
        畠  3町6反9畝20歩
一、 物成 76石3斗9升4合6勺
     内   2石4斗2升5合6勺  歩引
         4斗9升1合2勺    米小物成
         1石2斗9升7合5勺  御来米
一、 銀 14匁6厘8毛 銀小物成
一、 かまど数 134軒
一、 人口 666人 男359人 女307人
一、 牛数 8匹
一、 船数 50隻
一、 天疫神社 蛭子社                           (門司叢書)
一、 海見山光照寺(真宗)阿弥陀堂 
1840 天保 10 4月、柄杓田漁業組合と田野浦漁業組合との間に部崎鼻と長州松竹山を基にして漁業界の覚書を交換する。
柄杓田庄屋 斉之助
立会人 今津 門司 伊川 楠原等 庄屋数人
1858   安政 9月、光照寺石灯台双基建立 
1860 万延 柄杓田戸数  171   人口  934
白野江戸数  129   人口  734
大積 戸数  67    人口  370
喜多久戸数  43    人口   197
黒川 戸数  39     人口  308
                        企救郡誌(企救郡竈数人数書上帳)
元和記録にこの村名見えず、正保図にはあり、伊川より分れしなるべし、村誌に伊川、平山、柄杓田とも一村なりしが、寛永3年に分かれて3村となるとあるも寛永3年とあるは否なり。平山は正保図にも元禄図にもなければ、その後に分れしものと思われる。   
1868  明治 柄杓田村、村の名 古書に見えず(企救郡誌) 
1870 明治 庄屋、柄杓田、喜多久  吉田鎌3郎   
1872  明治 柄杓田小学校設立
    教員数        児童数
 田野浦 1名          54名
 白野江 1名          25名
 大積  1名          17名
 柄杓田 1名          58名
 伊川  1名          23名 
1875 明治 喜多久小学校設立     
1876 明治 10 今津浦漁業組合との間に猿喰岡ヶ鼻を基点として漁場界の互換証書を取替す。
今津浦惣代 以下4名及び係長の連署立会人として黒川区長、副区長の連署
 家人・馬・牛の日帳 村誌
東は山脈字船着の背上を界とし、同郡喜多久村に界し、西は山脈字石塚峠の背上をもって同郡伊川村と界す。南は海上を限り北は同郡喜多久村と山脈字海上をもって界す。
  幅員 東西 10町   南北 7丁30間
  税地 田 9町3反   畑 5町3反
  宅地   22反    山林 47反
     合計  511丁9反
  戸数  208
  人数  男 561  女 533
  牛数  6匹
  日本形船  130艘
  川   堀川構
  橋   向浜橋
  湖沼  5島河内 同下地 伊良迫 石塚 免国 田尻越藪 穴迫
  社   天疫神社
  寺   光照寺 浄土真宗(寺)
字(小名取帳簿)
5島河内 イラカ迫 石塚 洗川の奥 堤ノ下洗川 綾平 スダノ木 3反田 ゲメゾノ
松平 田舎尻 貴船迫 川南 向原 小迫 越藪 寺の下 6迫 川北 尻田 船付
船差道上 ハゼ 向浜 南方 北方 イノ迫 イノ迫南方 長迫 浜迫 浜ノ上 寺ノ上
イラケ迫 池下 5島河地下 後平谷 北久浜峠 石塚池 西ノ峠 辻山 長尾 後半迫
松尾 井手山 イラカ迫 南山 長岩 浜ノ上   
1878  明治 11 柄杓田小学校として認可される。
柄杓田村、伊川村、平川村となる。
1881 明治 14 大積 黒川 小学校 合併
1883 明治 16 1 柄杓田、喜多久小学校合併(柄杓田字小迫に校舎建設)
1884  明治 17 戸数206戸 人口1176名 
1886 明治 19 コレラ病流行、4本松に避病人家建設
1887 明治 20 柄杓田駐在所設置 512番地 民家を借用
1889 明治 22 柄杓田村と4ケ村合併して東郷村となる
柄杓田村 213戸 1231人
喜多久村  40戸  207人
黒川村   69戸  337人
大積村   73戸  362人
白野江村 155戸  836人
(合併理由)
1.現今の前期の各村は何れも資力乏しく独立自治の目的を達するを得ず而して地形密接、人情担同じき為合併して有力村を構成する。
2.各村とも郡の東部諸山岳の東麗に位するにより上人ふつうは東郷と称するを以て合併の新村名とする。
3.各村地勢、●?、交通の利ならざるも自然の地理免るる能わず、風俗、人情は異なることなく、而して役場位置に於いては、数村民各、希望する所あるも諸便利ある地、即ち現今の柄杓田村を指定する。
1890  明治 23 2月、柄杓田専用漁場、青浜沖において、田野浦漁業者の烏賊びき漁業を聴許したる定約書を田野浦漁業取締役秋穂豊吉氏と取交す。
1890  明治 23 3月、巡査駐在所を柄杓田南方128番地官有浜地16坪に木造建築
1891 明治 24 8月、柄杓田漁業場内における垣見漁業者の2?操網1張使用を聴許したる約定書を取交す。
垣見漁業取締役、渡辺槌蔵外1名及柄杓田漁業取締役、広瀬平3郎以下2名の連署あり。
立会証人として豊前沿海漁業取締片山豊盛氏の署名捺印がある。
1892 明治 25 柄杓田尋常小学校と改む(修業年限3年)
5月、垣見漁業者、柄杓田漁場内において、鯖網営業をなさざる定約書を柄杓田浦漁業組合取締役3名 恒見漁業組合と取換す。その証人として豊前沿岸漁業組合 署名あり。
1895 明治 28 柄杓田尋常小学校修業年限4年とする。
1897 明治 30 柄杓田魚市場売上金額27000円
1898  明治 31 一.垣見浦漁業者との間において、鯔網漁業に関し特別定約書を交換す。両浦漁業惣代各署各捺印ならびに立会人署名捺印せり。
1900  明治 33 柄杓田漁業組合員数184 漁船156 主漁者300余。主なるものは、ボラ、サバ、イカ等で販路は門司・小倉・下関・中津 及 筑前方面 醤油醸造も盛ん
6月今津浦漁業者は柄杓田専用漁場内において鰆網漁業をなさざる定約書を交換し豊前沿海漁業組合長を証人とする。
1901 明治 34 2月従来の巡査駐在所は狭隘で床下海水浸入多きため、増改築す。
4月、恒見浦漁業組合との間において柄杓田漁場内における鯔群発見投網に関する入漁料の件について誓約書を交換せり、柄杓田浦委員3名、恒見浦委員5名の連署 捺印並に立会人証人として豊前沿岸漁業組合長の署名 捺印ある。
1903  明治 36 避病人家、船付に10戸建設(9尺2間)
柄杓田郵便局開設
1904  明治 37 柄杓田尋常小学校、校舎改築
光照寺改築
7月 東郷村村長就任
1906 明治 39 11月 漁業法実施に伴い豊前18浦 漁業出頭の際、柄杓田浦漁業組合と東吉富漁業組合外16浦との間において従来の慣行により特定契約を第1条より第4条に至る項目を
  福岡県属人 
  企救郡役所書記  
  小倉裁判所管内公証人 
  立会人  
益に各18浦漁業組合長の連署承認ある。
第1条 柄杓田浦従来の慣行による特権を17浦之を承認する。
第2条 恒見・田野浦 両漁業組合との間における鯔網 烏賊曳8漁の件
第3条 柄杓田浦対17ヶ浦漁業入業に関する件
1908  明治 41 2・1  柄杓田郵便局、電話通話事務開始
4・1  柄杓田尋常小学校修業年限6年となる。
学校敷地拡張 教室増築
1909 明治 42 1月  村長就任
1913  明治 柄杓田浦漁業者が馬島漁場内に入場手探網使用に関して契約を手交す
両組合代表理事の署名捺印
1914 大正 8・25 暴風高潮のために巡査駐在所流失、
川南531番地 村人所有家屋を借用(9月4日)
9・4   村長就任 
1916 大正 電灯設置  自転車利用はじまる
1918 大正 柄杓田郵便局電信事務開始(配達も実施)
1920 大正 9月 柄杓田漁業者が平松浦漁場内入漁手探網使用に関して契約書取交す
両浦組合理事幹事各1名署名捺印
1921  大正 10 12月柄杓田漁業者が藍島漁場内に入漁手探網至当に関する契約書を手交す
両組合理事各1名署名捺印
1921 大正 10 椿トンネル開通
1922  大正 11 柄杓田里道幅員2間に拡張
 戸数 280  人口 1400
1924  大正 13 柄杓田―門司間乗合馬車走る。    運賃 門司―柄杓田 10銭
1926  大正 15 3・17 種池町大火 12戸全焼
駐在所を川南530番地に新築移転
1928 昭和 柄杓田尋常小学校運動場拡張、講堂新築
1929 昭和 11・1 企救郡東郷村、門司市に編入
1931 昭和 柄杓田巡査駐在所非常信号機(専用電話)設置
1932  昭和 門司市錦町9丁目―柄杓田1111番地間、自動車旅客運送許可
料金 門司ー柄杓田間 10銭
1936  昭和 11 乗合自動車 門郷バスとなる。
11月 川南に巡査駐在所新築。
新椿トンネル開通。
1938 昭和 13 石塚トンネル開通 2、398円
1940  昭和 15 門郷バス、西鉄経営となる。ガソリン節減のため、午前4回、午後3回となる。
1942  昭和 17 8月、大型台風、満潮と津波で海岸の家屋20戸倒壊。漁船全滅20隻。この被害状況視察のため8月31日、県知事、9月7日、侍従武官巡視
1943 昭和 18 この頃 家屋は藁葺屋根から瓦葺に変わりはじめた。
瓦葺 168戸  藁葺 123戸  トタン葺 24戸 2階建 65戸  共同風呂 2自家用風呂 19
戦争のため焼料も少なく共同風呂は2ヶ所が1日交替となり 自家用風呂が暫時増加する。
昭和15年頃から都会での勤務者が多くなり、そのため中等学校進学者多数増加
電灯の利用状況、定額灯からメートルに切り替が多くなる。
13ワット1灯のみ71戸  25ワット1灯→126戸  40ワット1灯→5戸
60ワット→3戸      13ワット2灯→69戸   13ワット3灯→8戸
メートル33戸
ランプ使用3戸(電灯線工事困難な地区)
自転車の利用者増加 大人用140台
子供用 5台
従来の大8車利用からリヤカー利用多くなる
リヤカー数 36台
1945 昭和 20 3月 戦災による火災 67戸全焼
1952  昭和 27 漁業戸数 136  22名 漁獲高 38、050円
動力船 88隻  無動力 23隻
1953  昭和 28 柄杓田小学校と漁業組合に電話架設  戸数389戸  人口1959人
1954  昭和 29 門司駅―柄杓田間バス1日18回往復
3月 川端付近火災 8戸全焼
1957 昭和 32 区画整理により1部柄杓田町となる
1964 昭和 39 簡易水道設置
1967  昭和 42 港は豊前海避難港として第3次修築計画完成 1億4千7百万円
1988 昭和 63 恵比須神社改築


 


 


 

※ 終戦後、記事略
 
       
2008 平成 20 (1月14日) 柄杓田公民館閉館式
2009 平成 21 (1月16日) 東郷市民センター柄杓田サブセンター開館式