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今から二百数十年前の享保と呼ばれた時代のことです。
その年は田植えの頃から雨が降り続き、田植えが終わってもいっこうに雨が上がる気配がありません。村人たちは、くる日もくる日も降り続く空を見上げて、ため息をついていました。
「こんなに降っては、稲が育たん。」
「今年は、きっと不作じゃぞ。」
心配していたとおり、稲も麦も作物はすべて不作になってしまいました。
翌年は、雨は前年ほどではなく、ようやく自分たちが食べられるぐらいの稲の出来でした。
明けて翌年、この年は雨もほどほどで、田植えしたあとの稲の生長も順調でした。
「今年は良い出来のようじゃ。」
「刈り入れまで、この天気が続くと良いがのう。」
皆、秋の収穫を心待ちにしておりました。ところが、日和は良かったのですが、刈り入れの直前になって「イナゴ」が大量に発生してしまいました。イナゴは稲を食べてしまう害虫なのです。あちこちでイナゴがせっかく実った稲を食べてしまい、手のほどこしようがありません。刈り入れができなくなってしまいました。
たびたび続いた災害で、食べ物は底をっき、村人たちは野や山の草や木の実を探しまわりました。
この飢饉のため、お年寄りや子供、病人は弱り、赤ん坊をかかえた母親は乳がでなくなって、赤ちゃんも母親もやせ細ってしまいました。おまけに栄養失調で弱っているところに熱病が流行し、餓えて死んでいく人や病気で死んでいく人が多く、親子ともに亡くなり一家が空き家になるところや、父母を失い幼い子供たちだけが残る家など悲惨なことになってしまいました。そんな時、山鹿(現在の芦屋)に幕府からの救援米が着くという知らせが届きました。
小竹の村(若松区小竹付近)に、お菊、千代松という幼い姉弟がおりました。両親は熱病で亡くなり、二人だけが残ってしまったのです。二人は救援米の話を知ると、山を越えて山鹿へ行くことにしました。
何日も食べてない二人は、ちょっと歩いては休み、ちょっと歩いては休みという具合に 、なかなか足が進みません。「千代松、もうちょっと頑張ったら米が食べられるぞ。」「うん。山鹿に行けば、腹いっぱい食べられるよね。」二人はお互いにはげましあいながら山鹿へ向かう山をのぼっていきましたが、何日も口に入るものといえば水だけでしたから力があるわけがありません。だんだん言葉さえも出なくなり、山の途中で力つきて倒れ、ついに餓死してしまいました。
その後、村人がこの山道をとおっていると、どこからともなく幼い子供が泣きじゃくる声がきこえ、夜には火の玉が飛ぶようになりました。村人たちは、「きっとお菊、千代松の声じゃろ。かわいそうな死に方じゃったからなぁ。」と噂し合いました。そこで村人たちは、お菊、千代松の霊を慰めようと、地蔵さまを刻み、お菊たちが行きだおれになった山道に供養塔をつくりました。それからは、泣き声や火の玉も消え去ったということです。
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