北九州市立

大里柳小学校

大里と内裏
風呂の井戸と
大里柳小
柳の御所と
昔の町名
戸ノ上山
おもしろい話
大里宿場町
静泰院と蘭山
なぎなた通り

地域の名所

大里と内裏

柳の御所

柳の御所










内裏のもともとの地名は柳といいます。海のそばにあるので柳ヶ浦と呼ばれていました。 それでは、なぜ大里という地名ができたのでしょうか。……?

「だいり」「三月三日」というと、ひな祭りのおだいり様を思いだすのではないでしょうか。 内裏とは、天皇が住まわれる建物、その部屋をさしています。また、内裏は御所とも呼ばれました。 そうです。あなたたちが、お祭りによく行く「柳の御所」が何か関係ありそうですね。

寿永2年(1183年)の夏、山鹿(芦屋町)を通って、この柳ヶ浦にのがれてきた平氏は、この内裏の地に、 天皇の住まわれる屋敷を造り、自分たち一族の家も急ごしらえでつくりました。 平氏一族に守られて、京都を下った天皇は、安徳天皇といってまだ幼い子どもでした。 短い期間ですが、この地に天皇が住まわれたことで、内裏という地名が残り、今の大里という地名になったのです。

風呂の井戸と大里柳小

風呂の井戸

風呂の井戸










大里柳小学校の住所を知っていますか。北九州市門司区不老町2丁目1−1です。 不老=年をとらない、いつまでも若々しい、とてもおめでたい地名ですね。なぜ、不老町という地名ができたか考えて見ましょう。

わからない!それでは、ヒントをあげましょう。 大里柳小から門司駅にむかっていく歩道橋の下を右に行くと、せいぜんの横の細い道に井戸があるのを知りませんか。 知らない人は、ぜひ自分の目で見に行ってください。「風呂の井戸」と書かれています。 これも、「大里と内裏」で話した、安徳帝と関係があります。この清水は、鏡が池といわれていましたが、 底より玉のように泡が上がり、夏にもかれずにいっそうわいて出る名水です。このために、安徳天皇の風呂の水として使われました。 それで、この池のまわりを整えて、「風呂の井戸」といわれるようになりました。 大里柳小学校の住所「不老町」は、実は、「風呂の井戸」から名前をとったようです。

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柳の御所と昔の町名

あなたたちが、よくいく柳の御所。 源氏に追われ、この淋しい門司の町(今でこそ北九州市の門司区ですが、12世紀の後半、京都が都だったころは、 門司はものすごい田舎だったはずです。)に、天皇とともに住んだ平氏の人々はどんな気持ちだったことでしょうね。 華やかな都の生活を送ってきた人々にとって、たまらない毎日であったことでしょう。 そのために、京都の日々を思い出すたびに涙をとめることができない人もいたことでしょう。 そのような心が、柳の御所の石碑に和歌として残っています。

少し紹介しましょう。

和歌の紹介その1

京都の桃や梅の花がおりなしてすばらしい風景が思い出されてならないなら、柳の御所に来てみなさい。 (私が桃や梅を植えたので少しは心がなぐさめられるはずですよ。)

和歌の紹介その2

天皇が住まわれているのだから、ここが都と考えるべきなのだろうが、 (まわりのあまりにさみしい風景に)京都の都の生活が恋しくて仕方ないのだよ。(早く都に帰りたい。)

当時の人々は、都の地名を門司の大里の地に名づけて、心のさみしさをいやしていました。 昭和50年代までは、そのような昔の地名が残っていたのですが、「北方」「北方屋敷」「的場」の字名はなくなり、 今は、「梅ノ木」「梅ノ木小路」「桃山」が残っているだけです。

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戸ノ上山 おもしろい話

戸ノ上神社

戸上神社













寛平元年(889年)のある夜、柳ヶ浦の漁師の網に一体の玉の像がかかりました。 漁師は、それを根二の浜の松の木の大枝に置いて帰りました。 それから、数日たって、馬寄村の老人の夢に出て、早く迎えに来るように言いました。それで、その玉を迎えて家に持って帰りました。 しばらく家の中でおまつりしていましたが、また神が、夢に出てきて「今から、わたしに鶏の声の届かぬ高き所にまつれ。」と言われました。 それで、老人は弟と一緒に戸板にのせて、鶏の鳴き声の届かない高い山に持っていき、まつりました。 戸板の上に乗せたので、戸ノ上山と呼ばれるようになりました。その前は、戸ノ上山のことを一夜山といいますが記録は残っていません。

戸ノ上山の山頂に、上宮があります。そして、下宮が戸上神社なのです。すると、戸上神社も鶏の鳴き声が嫌いということになりますね。 大里柳小学校は、戸上神社に近いので鶏をなかさないように気をつけなければいけませんね。

戸上神社には、よく見てみるとおもしろいものがたくさんあります。

  • その一、石垣にほられたとっくりのうきぼり、石工さんは酒好き?
  • その二、神社の片隅にある「力石」といわれる、とても重たい丸い石。お祭りなどで力自慢をした人がいたのではないでしょうか。
  • その三、鳥居にほられている「久留米藩」の字。久留米は遠いのに、なぜ、戸上神社に鳥居を上げたのでしょうか。

戸上神社の三つのおもしろいひみつを見つけられるでしょうか?

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大里宿場町

昔、九州から本州に渡るには、大里は海流や道路の上でも最もよい条件を備えていました。 江戸時代になって、大名の参勤交代が始まると、九州の諸大名は、大里から本州に渡るものが多くなりました。 また、本州からの産物が九州に届くときの初めての陸駅として、とても盛んになり、宿場町が作られ人々があつまりました。 参勤交代は、とてもお金がかかるので、宿に夜遅くついて、朝早く出かけて宿場や宿屋に余分なお金を出さないように節約したようです。

当時の歌に 「いやなお客は鍋島薩摩 いつも夜泊り七ツ立ち」と、あります。

大里の北端にくるめ屋敷がありました。これは大阪従来の基地として小倉藩に借りたものです。 ある時、久留米藩の船の海難事故が続いたので、門司の氏神様の戸上神社に安全祈願をしました。 すると、それから事故がなくなり、久留米藩は、戸上神社にお礼として鳥居をプレゼントしたそうです。

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静泰院と蘭山

豊国学園と柳小の間にある静泰院と蘭山

豊国学園と柳小の間にある静泰院と蘭山













豊国学園と大里柳小学校の間の一画に小さなお墓がたくさん並んでいます。 これは昔、静泰院という禅寺があり、そこに高僧蘭山が入山したためです。

蘭山は、とてもすばらしい僧で、人々から生仏としたわれました。 この蘭山の徳を慕い、いろいろなところから静泰院で修行をするためにたくさんの若い僧があつまってきたのです。 蘭山がいた二十八年間に、数千人に登る僧が教えをこい、修行の途中、病気などで、門司の地で亡くなった人も多くいます。 今残されているお墓は、その人たちの墓なのです。 その地名を読んでみると、出雲亀高(鳥取県)播州綱千(兵庫県)伊豫宇和島(愛媛県)等全国各地から集まってきていることがわかります。

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なぎなた踊り

大里柳校区には、なぎなた踊りという伝統的な踊りがあります。 平成5年当時は郷土歴史研究クラブがクラブ活動の時間を利用して練習していました。 また、公民館でも大里柳小の友達が練習して、敬老会などに参加していました。

このなぎなた踊りの内容について教えましょう。 なぎなた踊りは別名団七踊りといいます。 水田で草取りをしていた農夫が泥土を投げそこなって志賀団七のはかまを汚したために団七から殺されます。 そのかたきを姉のみやぎ、妹のしのぶが討ったことを踊りに仕組んだものです。 明治の終りに大里原町村の小畑態太郎氏が、日豊線松江の堀の谷地方にあった踊りを原町村の青年に伝えたのが起こりです。 以前は、妹はくさり鎌でしたが、現在は、姉・妹とも、なぎなたで踊ります。

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